ブログ|京都 下鴨 洛北の出版社「自費出版の北斗書房」

2016年7月30日

名文とは? ―文章を書く心がまえ―

上手な文章が書きたいとは、誰しも思うものです。

スッキリした切り口で味のあるエッセイ。
思わず「なるほど!」と呻ってしまう学術書。
あたかもその場に居るような錯覚を覚えるルポタージュ。

このように、上手な文書にも色々ありますが、共通していえることは「解りやすい」文章であることでしょう。
一度読めば内容がすんなり頭に入る、そんな文章は間違いなく上手な文章といえます。

残念ながら、文章の高尚さと書かれた内容の高尚さには、何の関係性もないのです。

これらのことは、多くの文章講座やテキストで述べられていることです。
逆にいえば、それだけ解りにくい文章が多いのかもしれません。
ではなぜ、解りにくい文章を書いてしまうのでしょうか。

キーボードや原稿用紙に向かったとき「自分も後世に名文を残せるかも」と、つい妄想してしまう……程度の差はあれ、そんな妄想を抱いた人は少なくないと思います。

自分の著作を読み手に高く評価してもらいたい。
自費出版に限らず、何かを執筆する際、誰しもこう考えるのではないでしょうか。
この欲求は否定できません、それは人間の持つ自然な欲求といえるからです。

ただし、これは文章の中身に関わることであって、表現方法やテクニックで、自分の文章があたかも名文であるかのように見せようとすると、たいていの場合は逆効果になります。

よくある例としては、難しい言葉や漢字を多用し、ひねった言い回しを多用することです。
この様な文章は、文章で伝えたいことが散漫になり、その結果解りにくい文章になってしまいます。

あるいは、ひとつの文章に色々な内容を詰め込みすぎると、主題が解りにくくなり、やはり解りづらい文章になります。

名文かどうかは読み手が決めるものだと思います。
時間と多くの読み手を経て、結果的に名文として今に残っているのです。
現在に残る名文も、恐らくそれを書いた本人にそんな積もりは無かったことでしょう。

これから文章を残す私たちは「名文」ではなく、分かりやすく伝わりやすい「良文」を意識して執筆する方が、結果的に良い文章になるのではないでしょうか。