ブログ|京都 下鴨 洛北の出版社「自費出版の北斗書房」

北斗・京の歳時記

京都のエッセイ作家(2)鴨長明 ― 無常観という視点 ―

鎌倉時代の初期、1212年に鴨長明が記したのが、方丈記です。

冒頭の「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず…」という文章は、清少納言の「枕草子」同様に、学校の授業で学んだ記憶がある方も多いと思います。
今回は、そんな日本人にとって馴染みの深い方丈記についてご紹介したいと思います。

方丈記は、清少納言の「枕草子」、兼好法師の「徒然草」と並んで日本の三大随筆の一つとされています。
随筆とは、自分の考えや見聞きした事などをありのままに書いた文章の事です。

方丈記は、全体でおよそ9,400文字、他の古典文学作品に比べると短いものです。
一般的な文庫本は1ページに約700文字が入っていますので、これに換算すると15ページ弱に収まってしまいます。
この短い文章のなかに、鴨長明の暮らしの中での出来事や考えの他、鴨長明自身が体験した厄災の記録や人生訓が記されています。

方丈記が書かれたのは、およそ800年前、1212年頃とされています。
通説では1155年(久寿2年)生まれとされていますので、鴨長明58歳頃の執筆になります。

方丈記は、日本人の無常観を表した作品ともいわれています。
無常観とは、世の全てのものは常に移り変わり、いつまでも同じものは無いという思想の事です。
釈迦の入滅後、やがて教えが廃れる時代がやってくるという末法思想の広まりと共に、無常の概念が広まったのではないかと考えられています。

ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。
よどみにうかぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。
世の中にある人と棲(すみか)と、又かくの如し。

方丈記の冒頭文は、この無常観を端的に表した表した名文といえるでしょう。

鴨長明は、下鴨神社の正禰宜の次男として生まれ、比較的恵まれた環境で育っていましたが、若くして父母を亡くしました。
その後、望んでいた河合社(ただすのやしろ)の禰宜の職に就くことが叶わず、鴨長明は出家し洛北大原の里に隠棲しました。

その後、各地を転々とした後、1208年(承元2年)54歳で現在の京都市伏見区の日野に落ち着き、そこに方丈の庵を結びました。

自分自身の不遇な半生と共に、当時世に広まった末法思想の影響を受けて、鴨長明の無常感が方丈記に結実したのかもしれません。

鎌倉時代前期歌人、源家長が記した「源家長日記」には、

すべて、この長明みなし子になりて、社の交じらひもせず、籠り居て侍りしが、歌の事により、北面に參り、やがて、和歌所の寄人になりて後、常の和歌の会に歌參らせなどすれば、まかり出づることもなく、夜昼奉公怠らず。

と記されており、真面目に公事を務めていたことが伺えます。

また、和歌に通じ、琴や琵琶などの管絃の名手であったことも伝えられています。
若い頃より中原有安に琵琶を学び、和歌は俊恵に師事して才能を磨きました。

『方丈記』の方丈とは、晩年暮らした庵のことで、日野(京都市伏見区)には庵跡とされる地や方丈石が残されています。
また、下鴨神社摂社(京都市左京区)の河合神社には、方丈の庵が復元されています。

日本三大随筆のひとつに数えられ、「鎌倉文化発展の序章(日本古典文学大系)」ともされる方丈記。
原文、現代語訳いずれも各社より刊行されています。
なかなか外出もはばかる日常が続きますが、この機会に手にとって、末法の世に無常を感じた鴨長明に思いをはせてみてはいかがでしょうか。

 

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北斗書房版・京の歳時記〔冬の部〕

〔冬の部〕

初 冬

初冬、仲冬、晩冬と冬を三期に分けた初めの冬のことで、陽暦の十一月にあたります。
木枯らしが吹いて落葉が舞い、冬の訪れを感じる頃です。

初冬の竹緑なり詩仙堂(内藤 鳴雪)

初冬やシャベルの先の擦り切れて(山口 誓子)

小春日

陰暦十月の異称。立冬を過ぎてから春のように、晴れた暖かい日和のこと。
吉田兼好『徒然草』第百五十五段に「~秋は即ち寒くなり、十月は小春の天気、草も青くなり梅もつぼみぬ~」とあります。

小春日の笑の中にいるアイツ(北村 恭久子)

小春日にそっと抱かれ拭われる(西村 亜紀子)

小春日や京都時間に身をゆだね(五十嵐 哲也)
京都時間とは約束の時刻よりも5分ほど遅れて訪問先へ訪れることを言います。
訪問する相手先が準備されていることに配慮して、少し時間に余裕をもたせるという、相手先への心遣いなのです。
これも相手を思いやる京都人の優しさでしょう。

小春日の床几に憩ふ人二三(藤原 宇城)

比叡山間近く見ゆる小春かな(村田 昭子)

鉄鉢をひらく小春の寺屋敷(椋本 小梅)

鉄鉢の中へも霰(種田 山頭火)
鉄鉢は僧侶が食べものをえるために使用した鉄製の鉢。
この鉄鉢を形どった木製の器に精進料理を盛り付けた「鉄鉢料理」を出すお店が京都にあります。

小春日や鶯張りの二條城(吉儀 丙馬)

降る雪も小春なりけり知恩院(小林 一茶)

年の暮

十二月も押しせまった頃をいいます。各家庭では新年を迎える準備に大わらわです。

仁左衛門の阿呆ぶり佳く年暮るる(火箱 ひろ)

としのくれ八坂の塔の鈴の音(怒 誰)
法観寺の茶室(聴鐸庵)では、五重塔の屋根の先端に吊るされた風鈴のような風鐸の音を聴くことが出来ます。

Wikipedia「法観寺」/
https://ja.wikipedia.org/wiki/法観寺

年の暮形見に帯をもらひけり(久保田 万太郎)

大晦日

大晦日は十二月最後の日で大年ともいいます。

生き延びて大晦の酒支度(橋本 正子)

京の町異国の人も大師走(林 光太郎)

大年の嵯峨清凉寺闇に入る(廣瀬 直人)

大年の関屋六波羅蜜寺みゆ(安永 典生)

大年の法然院に笹子ゐる(森 澄雄)

大年の鴉ねぐらへ鳥辺山(松田 うた)

時 雨

秋から冬にかけて降る通り雨で、俳句でよく詠まれる材料の一つです。
なぜか京都には時雨が似合うようで、川端康成の「古都」にも描かれています。

初しぐれ和泉式部といふ町に(川嶋 桃子)
双ヶ岡の南、御室川の黒橋を西に行くと、京都市右京区太秦和泉式部町があります。
その昔、ここに和泉式部塚があり、町名の由来となりました。京極の誠心院には式部の墓があります。

石庭の白砂の渦に初しぐれ(吉田 豊子)

山門に時雨やどりの人二三(藤原 宇城)

ど忘れを思ひ出せずに時雨傘(西村 侑岐子)

壽と書けば北山しぐれかな(後藤 綾子)

北山の時雨にぬれて花街へ(梶山 千鶴子)

西陣の時雨地蔵につと呼ばる(丸山 海道)

初時雨子供泣きゐる粟田口(奥田 鷺州)

三條に飴選びいる初時雨(大竹 萌)

七味屋の庇をかりるしぐれかな(西澤 宏治)
七味屋(七味家本舗)は清水坂にある創業三百六十年の老舗で、東京のやげん堀、長野の八幡屋磯五郎と共に、日本三大七味唐辛子の1つに数えられています。

七味屋本舗/
https://www.shichimiya.co.jp/

鉢たたき洛中洛外初しぐれ(角川 春樹)

打水にあらず祇園の初しぐれ(大島 民郎)

大原をさこそと思ふ時雨かな(小野 起久)

時雨きて去来の墓を素通りす(岡野 さちこ)

地表の温度が零度以下になると、露が結晶になって白く見えます。これを「霜」といいます。
通常、気温が4℃を下回ると霜が発生しやすくなるといわれています。

霜の花出雲阿国の墓平ら(有馬 朗人)
歌舞伎の元祖とされる阿国の墓は出生地とされる島根県大社町にありますが、京都大徳寺の塔頭・高桐院にもあります。

先生の銭かぞへゐる霜夜かな(寺田 寅彦)
寺田寅彦は物理学者、夏目漱石門下で、小説『吾輩は猫である』の水島寒月や『三四郎』の野々宮宗八のモデルともいわれています。

初 雪

その冬、初めて降る雪、あるいは新年に初めて降る雪のこと。日本列島は南北に長いため、初雪の降る時期はかなり異なります。

バリウム飲む夫よ比叡に初雪す(梶山 千鶴子)

初雪や俥とめある金閣寺(野村 泊月)

金閣のはじく余光や凍ゆるむ(竹中 碧水史)

薄雪をのせし薄氷銀閣寺(右城 暮石)

初雪や上京は人のよかりけり(与謝蕪村)

狐 火

夜に火が点々と見えたり消えたりする現象のことで、原因は明らかにされていません。
キツネが火を燃やすという俗信から「狐火」と呼ばれました。
俳句では冬の季語として扱われます。

狐火や鯖街道は京を指す(加藤 三七子)

伏見港失せて狐火絶えにけり(大島 民郎)

狐火も蕪村の恋もとはの闇(矢島 渚男)

狐火や髑髏に雨のたまる夜に(与謝蕪村)

狐火や消せないメールひとつある(波戸辺 のばら)

すぐき

京都市の北部、上賀茂特産の「すぐき菜」という蕪の1種をお漬物にしたものです。
梃子の原理を利用した重石で漬ける風景は上賀茂の冬の風物詩です。

北山の雨に聴き入る酢茎樽(関岡 光子)

鴨引くや洗ひ仕舞ひの酢茎桶(山下 秀子)

酢茎漬匂へる道を加茂詣(山口 峰玉)

酢茎漬別雷の氏子なる(大森 抹起子)

祖父の石父の石もて茎漬くる(吉岡 翠生)

 

〔参考・引用文献〕
『新京都吟行案内』辻田克巳(公益社団法人俳人協会 2013年)
『合同句集 三光鳥』北村恭子他(北斗書房 2015年)
『新日本大歳時記』飯田龍太他監修(講談社 1999年)
『合本俳句歳時記 新版』角川書店編(1995年 角川書店)
『現代俳句文庫73  火箱ひろ句集』火箱ひろ(2013年 ふらんす堂)
『梶山千鶴子 自解150句選』梶山千鶴子(北溟社 2002年)
『冬薔薇』西村侑岐子(2003年 北斗書房)
『句集 日日雑記』吉田豊子(1993年 北斗書房)
『橋本正子遺句集 宜候』橋本保二郎編(2018年 北斗書房)

北斗書房版・京の歳時記〔秋の部〕

〔秋の部〕

紅葉狩

股引の茶汲女や紅葉狩                                            草一

京都は紅葉の名所が多く、本句は東福寺の紅葉狩りを詠んだものです。
多くの客を捌くには和服に前掛け姿では動きづらく効率が悪いので、男物の股引をはいて忙しく立ち働いている茶汲女の姿を詠んでいます。

東福寺/
http://www.tofukuji.jp/

 

紅葉焚く金閣寺燃えおつるかな                               有馬朗人

昭和25年、放火で炎上した金閣寺と重ねあわせた句です。

鹿苑寺(金閣寺)/
http://www.shokoku-ji.jp/k_about.html#

 

冬ちかし

冬ちかし時雨の雲もこゝよりぞ      蕪村
  (洛東ばせを庵にて)

蟷螂の反りかへり見る冬近き       山口青邨

金福寺は洛西の落柿舎とともに俳諧遺蹟として知られています。松尾芭蕉と親交のあった円光寺の鉄舟和尚が無名の一宇を芭蕉庵と名付けました。その後、荒れ果てていた庵を蕪村が再興し、天明三年に68歳で亡くなり金福寺の後の丘に葬られました。

金福寺(京都観光Navi)/
http://kanko.city.kyoto.lg.jp/detail.php?InforKindCode=1&ManageCode=1000076

 

平野屋を出づれば月の東山               琅玕子

白川をかよふ夜舟や空の月               重頼

平野屋は「いもぼう」で知られた円山公園にある料理屋で、青蓮院に仕えた初代が宮様のお供をして九州へ行き、唐芋を持ち帰り、栽培したところ形が海老に似ていたので海老芋と名付けました。宮中献上品の棒鱈と炊き合わせたところ、芋は形崩れせず、棒鱈は柔らかく、互いの持ち味を引きたて「夫婦炊き」と呼ばれました。

 

夜寒

太秦に撮影を見る夜寒かな      楓涯

右京区太秦は「日本のハリウッド」と呼ばれ、大映、東映、松竹の撮影所がありました。現在は「東映太秦映画村」が修学旅行生で賑わっています。

太秦東映映画村/
http://www.toei-eigamura.com/

 

征きし子の部屋そのままに夜寒かな    北 山河

太平洋戦争で学徒出陣か応召で戦地に行った子の部屋の寒々とした光景です。出征した我が子は無事に帰還できたのでしょうか。

 

鹿

北嵯峨や町うち越して鹿の声     内藤丈草

内藤丈草は江戸中期の俳人。「うち越す」とは間にあるものを超える意味です。

 

ぴいと啼く尻声悲し夜の鹿      芭蕉 

奥山に紅葉踏みわけ鳴く鹿の声聞く時ぞ秋は悲しき      猿丸大夫

古今集巻四・秋上にある猿丸大夫のこの歌は、「小倉百人一首」でご存じの方も多いことでしょう。

 

露けし

夕霧の墓へのみちの露けさよ     高桑義生

露けさの身をかばひ子をかばひけり    中村汀女  

夕霧は京都・島原の遊女で後、大坂・新町の遊郭に替わり、江戸の高尾、京の吉野とならび日本の三太夫といわれました。墓は大阪下寺町の浄国寺にありますが、嵯峨とする説もあり、毎年一一月に「夕霧祭」が催されています。 

 

暮れの秋

祇王寺でまた遭ふ女暮の秋      伊藤孟峰

祇王、祇女、母刀自、仏御前の話は「平家物語」巻1で有名です。因みに現在の建物は京都府知事・北垣国道が自分の別荘内の茶室を寄進して寺としたものです。

 

奥嵯峨に住みて一人や春の月    高岡智照尼

高岡智照(明治二九-平成六)本名・高岡竜子、奈良県生まれ。東京新橋で「照葉」と名乗り人気芸者になりましたが、後、祇王寺の庵主となり、余生を送りました。瀬戸内寂聴の小説「女徳」のモデルとされ、岡田茉莉子主演でテレビドラマ化、舞台化されました。

祇王寺/
http://www.giouji.or.jp/

 

大根蒔く

名ばかりの淀の城址や大根蒔く    暁明

大根播く光の粒をこぼすかに     西尾玲子

淀は山城盆地と摂津・河内を扼える畿内の要衝の地でした。秀吉は淀城を修築して淀君を囲ったことから有名になりましたが、維新後、城はこわされ昔日の面影は望むべくもありませんでした。
荒れた城址を見ながら大根を撒いている旧淀藩士の姿が目に浮かびます。

 

塵溜に柚味噌の蓋や妙喜庵        北渚

柚子買ひしのみ二人子を連れたれど  石田波郷

妙喜庵は室町時代後期の俳諧師・山崎宗鑑が草庵を寺に改めたと言われています。千利休もしばしば訪れ、また秀吉は茶会を催したと伝えられています。待庵茶室は国宝に指定されています。

 

大文字

火の入りし順には消えず大文字        稲畑汀子

送り火や今に我等もあの通り            一茶

大文字やあふみの空もただならね     蕪村

京の夏の風物詩である大文字。如意ヶ嶽(右大文字)から反時計周りに、妙法・舟・左大文字・鳥居の順に点火されますが、消えるときは必ずしもこの順にならず、得てして最初に点火する右大文字が最後まで残っている場合が多いようです。火床の大きさによるのでしょうか。余談ですが、京都人は「大文字」を「大文字焼き」言われるのを非常に嫌がります。山焼きではなくご先祖のおしょらい(精霊)さんが西方浄土へお帰りになるのをお送りしていると考え、送り火と称します。

 

 

〔参考・引用文献〕
 新日本大歳時記          講談社
 俳句で歩く京都  文・坪内稔典  淡交社
 昭和京都名所図会 竹村俊則    駸々堂
 日本古典文学大系 蕪村集・一茶集 岩波書店