ブログ|京都 下鴨 洛北の出版社「自費出版の北斗書房」

洛中徒然

新・洛中徒然 ー 鳴滝大根焚

鳴滝大根焚は、京都右京区鳴滝にある了徳寺で、12月の9日と10日におこなわれる行事です。季節のニュースなどでも取り上げられることが多く、京の冬の風物詩になっています。

建長4年(1252)、親鸞上人がこの鳴滝の地でお念仏の教えを説かれた時、村人達はそのお礼にと大根を塩味で焚いてもてなしましたことが始まりとされています。
村人たちの振る舞いに聖人はたいそう喜ばれ、後々の形見にと庭前のすすきの穂を筆代わりに、釜の炭で「帰命尽十方无碍光如来」の10文字の名号を残されました。

以来、この「すすきの名号」を徳とし、聖人の教えに立ちかえり毎年報恩講が勤められ、今日に至っています。
毎年12月の9日と10日には、大根を煮て親鸞上人を偲び参詣者に振舞われてきました。この大根をいただくと中風などにかからず、長寿のご利益があるとされます。
前日の早朝に掘り出された、京都府亀岡市篠町産の「青くび大根」約3,000本が了徳寺の境内いっぱいに並べられ、御門徒さんの手で切り出し、大鍋での焚込まれます。当日は、朝から直径1メートルの大鍋に大根が煮られ、参詣者はフウフウ吹きながら頂きます。その味は歴史とともに引継がれています。

京の町に今も受け継がれる「ダイコ」の味。参詣がてらお召し上がりになられてはいかがでしょうか。

あつあつと婆が涙や大根焚 岸田稚魚
大根焚き大根が蓋を持ち上げて 河原芦月

*参考文献
『京ことば辞典』    井之口有一・堀井令以知  東京堂出版
『京都暮らしの大百科』 梅原猛 他 淡交社
「新京都吟行案内」   辻田克巳著 俳人協会
「新日本大歳時記」   講談社

*資料提供
 真宗大谷派 法輪山 了徳寺
 右京区鳴滝本町八三 ☎075-463-0714

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新・洛中徒然 ー 重陽の節句

指に入る風はや寒し今の菊 嵐雪

重陽の節句は五節句のひとつで、中国の風習が起源とされています。陰陽思想では、奇数は縁起が良い「陽数」と考えられ、その陽数のなかで最も大きい9が重なる9月9日を、陽が重なる「重陽の節句」として、不老長寿や繁栄を願う行事が行われました。
重陽の節句は、平安時代に中国から伝来し、当初は貴族の行事として宮中で行われていました。その後世間一般に広まり、江戸時代には端午の節句や七夕同様、五節句のひとつとされました。

古来より菊は邪気を払うといわれ、重陽の節句には菊を使った様々な行事があります。
不老長寿を願い夜露と菊の香りが移った真綿で体を拭く菊綿や、菊を見て歌を詠みその優劣を競う菊合わせ、乾燥した菊の花びらを詰めて作る「菊枕」は、司馬遼太郎の小説『竜馬がゆく』にも登場します。
また、花札の九月札は「菊」ですが、20文札は「菊に盃」で、これも重陽の節句に由来するそうです。
重陽の由来には別の説もあります。池間里代子先生の論文「花札の図像学的考察」では、次のように述べられています。

菊は中心から放射線状に花が咲き, どの花よりも球形に近く咲く。そもそも菊の占字は繭である。そこで「太陽」を連想させるのである。つまり菊は太陽のメタファーなのだ。そこで九月九日は重陽節として重要な節句となった。
(流通経済大学社会学部論叢19(2), 2009-03)

暦が太陰暦から太陽暦に変わり、重陽の節句が菊の花が咲く季節からずれたことで、このような風習はあまり行われなくなりましたが、現在でも社寺の行事として残っています。

参考文献
『9月の京都』2016年 淡交社
『日本の年中行事事典』2012年 吉川弘文館

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新・洛中徒然 ー 京のひな祭り

ひな祭りの起源は古く、3世紀頃の中国の「曲水の宴」にまでさかのぼります。
これが日本に伝わり、日本古来の神事や宮中行事を取り入れたのが日本の五節句です。
ひな祭りも五節句の一つで、奈良時代から始まったといわれています。

下鴨神社では、3月3日に流し雛の行事が行われます。
十二単のおひなさま・お内裏様などの和紙人形を藁で編んだ桟俵(さんだわら)に乗せて御手洗川に流し、子どもの無病息災を祈願します。
平安時代から続く行事で、京都の風物詩として春の訪れを告げます。

ひな祭りといえば「あかりを点けましょ ぼんぼりに~」で始まる歌が有名です。
ひな人形の売り場でもよく流れており、耳にされた方も多いことでしょう。
このひな祭りの歌、同じ題材で異なる歌詞の歌が三曲あることをご存知でしょうか。

1.あかりを点けましょ ぼんぼりに お花を上げましょ 桃の花
  (「うれしいひなまつり」作詞・サトウハチロー)

2.赤い毛氈 しきつめて お内裏さまは 上のだん
  (「ひなまつり」作詞・林柳波)

3.おぎょうぎ正しい だいりさま 赤いはかまの 官女たち
  (「ひなまつり」文部省唱歌)

同じ題材で異なる歌詞の歌がこれだけあるのも珍しいですね。

ご紹介した下鴨神社の他にも、京都の寺社では様々なひな祭りがとり行われます。
上賀茂神社では、五節句の重要な行事の一つとして、神前に桃の花やこぶしの花、よもぎ餅などの神饌(しんせん)をそなえ、無病息災を祈る「桃花神事(とうかしんじ) 」が行われます。

人形寺で知られる宝鏡寺は、尼門跡寺院だけあって、代々の皇女が慈しんできた人形たちが緋毛氈の上に飾られて、愛らしい姿を見せています。

一風変わったひな祭りは、六条河原町の市比賣神社でしょうか。
本来の神事も行われますが、人が扮する人雛、五人囃子の雅楽、それにあわせた三人官女の舞などにより、雅やかな公家社会が再現されます。

春の訪れを感じながら、こんな京都の雛祭りを楽しんでみられてはいかがでしょうか。

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洛中徒然 その8:京都と『忠臣蔵』

知れているものを数える泉岳寺(柳多留)

12月14日は赤穂義士の討ち入りの日にあたります。
300年以上過ぎた現在でもなお、歌舞伎や年末ドラマの定番です。

山科区にある大石神社では、毎年この日に「義士まつり」が行われます。
この神社は、赤穂浪士を崇拝していた浪曲師の吉田奈良丸らにより創建され、大石内蔵助を祭神に置いていることでも有名です。
主君、浅野内匠頭の無念を晴らすために、大石内蔵助は赤穂を出て京都山科に居を構え、およそ1年半の間、討ち入りのため策を練りました。

この他にも、浪士達と密会したお寺や仇討ちの成就を願った神社など、京都には赤穂義士ゆかりの地が数多く残されています。

冒頭の掲句は、お江戸見物のおのぼりさんが、討ち入りで有名な高輪・泉岳寺で、四十七士の墓をわざわざ「ひとつ、ふたつ」と数えている滑稽さを詠んだものです。

ちなみに、京都では肉のこま切れにしたものを「忠臣蔵」と呼びました。
「小間切れ」と「切り込み(討ち入り)」を掛けた言葉遊びのひとつでしょうか。

今年の師走も歌舞伎が上演されますが、その機会に忠臣蔵ゆかりの地を巡ってみられてはいかがでしょうか。
  
参考文献/
「新撰京都名所図会」   竹村俊則  駿々堂 
「師走の京都」      田中緑紅  緑紅叢書

 

【忠臣蔵マップ】

①瑞光院 浅野家の菩提寺で、境内に内匠頭の墓や四十六士の遺髪塔などがあります。
②大石神社 祭神は大石内蔵助、昭和10年に浪曲師の吉田奈良丸らにより創建されました。
③岩屋寺 大石内蔵助の隠棲地で、内蔵助や四十七士縁の寺宝が数多く残されています。
④本妙寺 赤穂藩商人の綿屋善右衛門が赤穂義士の合祀石碑を建立し「義士の寺」と呼ばれています。
⑤西方寺 四十七士の小野寺十内の墓があります。妻の丹は墓碑建立後、絶食し命を絶ったそうです。
⑥法住寺 大石内蔵助が仇討の成功祈願をしたと伝えられ、四十七士の像が祀られています。
⑦一力亭 仮名手本忠臣蔵で大石内蔵助が通っていたお茶屋として登場します。

 

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日時:

①  11月2日(木)/画集・写真集

②  11月11日(土)/句歌集・エッセイ

③  11月24日(金)/画集・写真集

④  11月25日(土)/句歌集・エッセイ

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電話 075-791-6125


 

洛中徒然:水の無い月?

6月は水無月(みなづき)とも呼ばれます。
これから梅雨に入るのに、なぜ「水が無い月」と呼ぶのでしょうか。
調べてみると、諸説あるようです。

田植えの先立って田に水を張ることから「水張り月」→「みなづき」になった説。(この場合の「無」は名詞と名詞をつなぐ連帯助詞で、「の」という意味になります)

当時、大仕事の田植えを皆で協力して終えたことから「皆尽月」→「みなづき」になった説。

旧暦の6月は、現在の暦の7月上旬から8月上旬頃にあたり、真夏で暑く水が無い時期なので「水無月」になった説。

京都では、6月30日にあちこちの神社で「夏越祓(なごしのはらい)」が行われます。
一年の折り返しにあたる6月30日に半年の罪を祓い、残る後半の無病息災を祈願するものです。
鳥居に付けられた茅の輪をくぐり、厄払いを祈願するものですが、これは祇園祭で有名な蘇民将来の言い伝えに由来しているともいわれています。


また6月になると、京都の和菓子屋さんでは「水無月」が出回ります。
白い三角形の外郎(ういろう)の上に小豆が乗ったお菓子で、この形は氷を表しているそうです。
室町時代の宮中では、氷の節句の行事として、氷室(ひむろ)から氷を取り寄せて暑気払いをしていました。
これにあやかり、氷に似せて作ったお菓子を食べ、夏の暑さを乗り切ろうとしたのでしょう。

水無月をいただくと6月ももう終わり、京都はいよいよ祇園祭の7月を迎えます。

 

6月度自費出版相談会のお知らせ

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日時:

 ①  6月2日(金) 9:00~18:00 終了しました

 ②  6月3日(土) 9:00~18:00 終了しました

 ③  6月14日(水) 9:00~18:00

 ④  6月24日(土) 9:00~18:00

相談会は予約制となっております。
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「染井吉野」縁起 ― 江戸に咲く奈良吉野の桜

日毎に暖かくなり、各地で桜の便りが聞こえる季節になりました。
現在、私たちが目にする桜の多くは、ソメイヨシノという品種です。
私たちが桜と聞いて連想するのは、ほとんどの場合このソメイヨシノではないでしょうか。
様々な時代劇の花見のシーンでも、多くはこの染井吉野を背景に撮影されています。
このソメイヨシノ、実は歴史的には新しい園芸品種です。

江戸時代の末期、葉が出る前にピンクの花が咲き揃う「江戸彼岸」と、大輪で花付きの良い「大島」を交配することによって、葉が出る前に大輪のピンクの花が咲く品種が誕生し「吉野桜」と命名されました。
「江戸に居ながら奈良吉野の桜がみられる」という意味です。
本来、吉野の桜は山桜の一種で、この新種の桜とは異なる種類なのですが、古来より桜の名所として名高い大和の吉野山にあやかって命名されたのでしょう。
江戸の人達が見慣れた江戸彼岸よりも大輪で花付きが多く見栄えがすることや、「吉野」というネーミングの妙と相まって、評判も良かったようです。
明治に入ってからは、幕末の戦乱で荒れた上野の山や、東京招魂社(現在の靖国神社)など、近代化する東京とその近郊に数多く植えられました。
後に、本来の吉野の桜である山桜と明確に区別するために、「ソメイヨシノ(染井吉野)」と正式に命名されました。

成長がとても早く、手入れが簡単で育てやすい、見た目が華やか、など多くの長所が認められ、現在では全国に植えられている桜の約8割がソメイヨシノといわれています。
ソメイヨシノは接ぎ木や挿し木によって増やすので、元の木と同じ個性を持ちます。
足並みを揃えたように一斉に開花するのはこのためです。
近年では、植樹がソメイヨシノに偏り過ぎたことへの反省や、生物の多様性という観点から、ソメイヨシノ以外の品種も見直されています。

京都で桜の名所ですと、平野神社が有名です。
生命力を高める神様の象徴として平安時代より桜が植樹され田歴史があります。
現在でも、約60種類400本の桜があり、3月下旬から5月上旬の約一カ月半の間、様々な種類の桜を楽しむことができます。
古くから桜の名所とされ、江戸時代には「平野の夜桜」として名を知られていました。
現代でも、桜の時期には桜茶屋が出店され、ライトアップされた夜桜が楽しめます。
遅咲きの平野突羽根(ひらのつくばね)ですと、5月上旬頃まで楽しむことができます。

ところで、明治時代のタバコに桜にちなんだ銘柄があることをご存知でしょうか。
明治37年(1904)、専売公社は「敷島」「大和」「朝日」「山桜」という四銘柄のタバコを発売しました。
これは『古事記伝』で有名な国学者・本居宣長(1730~1801)の詠んだ

「敷しまの倭ごころを人とはば 朝日ににほふ山ざくらかな」

という歌にちなんだものです。 

タバコの名前まで桜にあやかろうとするのは、日本人の心にそれだけ桜の花に対する強い想いがあるからでしょうか。

 

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 ①  4月1日(土) 9:00~18:00 ※終了しました

 ②  4月3日(月) 9:00~18:00 ※終了しました

 ③  4月19日(水) 9:00~18:00

 ④  4月21日(金) 9:00~18:00

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【洛中徒然(5)】お正月と日の丸の旗

お正月や祝日などの「旗日」に日の丸の旗を門に立てている家を見ることも少なくなりました。
これは伝統文化が色濃く残る京都でも例外ではありません。
目に付くのは一部のタクシーがバンパーに日の丸の旗を付けているくらいでしょうか。

年配の方にお話を伺うと、国民学校(当時の小学校)では、唱歌の授業で『日の丸の旗』を歌い、国旗掲揚台に向かって最敬礼をしたといいます。
この歌は現在でも文部省唱歌として小学校の音楽の授業で歌われていますので「白地に赤く 日の丸染めて……」の歌詞を覚えておられる方は多いと思います。

日の丸のデザインは、平成11年に施行された「国旗・国歌法」で定められ、正確には「日章旗」と呼ばれます。
その意匠は「旗の形は縦が横の3分の2の長方形。日章の直径は縦の5分の3で中心は旗の中心。色地は白色、日章は紅色」と定められています。

日本でこの旗を用いるようになった経緯には諸説ありますが、一説には「源平合戦」の際に源氏が旗印として用いたことに由来するといわれています。
以来、源氏の末裔を名乗る戦国武将は、必ず旗印に日の丸の幟を用いたそうです。

明確に日本の国旗として用いられたのは18世紀末ごろ、ロシアの南下政策に対する警戒のために出させた御用船に日の丸を施した旗を使用したことが、国旗として用いられた始まりのようです。

第二次大戦後、連合軍総司令部の指示により、公共機関や家庭での日の丸掲揚を禁止した時期がありましたが、昭和24年9月にはその禁が解かれました。

法律で日本の国旗に定められたのは平成11年ですが、実に千年以上の昔から日本を象徴する旗として用いられたことになります。
これほどの長きにわたって使われ続けたデザインは他に例を見ません。

3年後の2020年には、東京でオリンピック・パラリンピックが開催されます。
出場されるアスリートの皆さんのご活躍によって、多くの「日の丸」が掲揚されることを願ってやみません。

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2月4日(土) 9:00~18:00 ※終了しました
2月15日(水) 9:00~18:00

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【洛中徒然(4)】御火焚や霜うつくしき京の町  ―蕪村

京都の十一月は、多くの神社やお寺で「お火焚(おひたき)」の神事が行われることから、「火のお祭り月」とも呼ばれています。

お火焚とは、江戸時代から京都を中心に行われてきた神事です。その由来には諸説ありますが、宮中の重要行事である「新嘗祭」が民間に広まったものという説が有力です。参拝者が願い事を書いて奉納した「お火焚串(護摩木)」を境内に集めて組み上げ、ご神火で焚き上げすることにより、汚れや罪が祓われて願い事がかなうといわれています。

そのなかでも、特に伏見稲荷大社が有名です。稲の亡骸に見立てた稲わらを焚き、続いて数十万本のお火焚串を焚き上げます。春の稲荷祭を稲の誕生、冬のおひたきを稲の死と考え、穀神への奉謝と春の再生を祈るのです。

また、この祭は別名、鞴祭(ふいごまつり)、吹革祭(ふいこうまつり)ともいわれ、江戸期の文献には鍛冶屋が屋根の上から蜜柑を撒く様子が描かれています。

御火焚の行事は神社だけでなく一般の家庭でもおこなわれており、古くから京都の人は、「おひたきさん」「おしたきさん」と呼んで、 この神事を大切にしてきました。

火に関係した興味深い資料があります。平成二十七年度の火災件数は、京都市は二三二件、人口一万人当たりに換算すると一・六件になります(京都市消防局「京をまもる」より)。東京都は三・五件、大阪市は三・二件ですから、この数字がいかに少ないかがお分かりいただけると思います。

町家、マンションを問わず、台所には火除けの神様である愛宕山の「火廼要慎」のお札が貼られているのをご覧になられた方も多いでしょう。こんなところからも、神事に限らず京都の人が火に対して抱いている畏敬の念の表れとも言えるのではないでしょうか。

【洛中徒然(3)】紫野散策 ― 憧れの小路と女中学校 ―

紫野は、京都市北西部に位置する、船岡山から大徳寺辺りにかけての広い地域を指します。
大徳寺や今宮神社など観光スポットとして有名な寺社があり、古都の歴史を刻む場所のひとつです。また、洛北七野と呼ばれる京都市北部に広がる7か所の野(内野、北野、平野、点野、紫野、蓮台野、上野)の一つでもあります。
 
地名の由来には諸説ありますが「宇多村の先にある野」が転じたものという説が有力です。
歴史の古い地名で、平安時代初期の書物には「桓武天皇が紫野で狩りをした」という記録があります。
 
大徳寺の塔頭である孤蓬庵の東側、今宮神社の参道に面して紫野高校があります。
昭和27年創立と比較的歴史の新しい高校ですが、最近では芥川賞作家を輩出したことでも知られています。
 
紫野高校ができる以前は、京都淑女中学・高等学校があり、孤蓬庵近くの路地は女学生の通学路でもありました。
誰が言いだしたのか定かではありませんが、この路地を当時の男子学生などは「憧れの小路(こみち)」と呼んでいたそうです。

ある方の手記に、この淑女中学に関するこんな記載がありました。

「…校名を書いた大きな看板の「淑」が消され、あろうことか「淑女中学校」が「女中学校」になってしまった。近所の悪童の仕業であるが…(中略)…大人たちも「またか」と苦笑いしていた…」

半世紀近く前のエピソードですが、当時のおおらかさが偲ばれます。
 
この女学校は後に廃校になり、跡地には紫野高校が創立されました。その際、当時淑女高等学校にあった茶室はそのまま紫野高校に移築されました。
この茶室は「茗清軒」と呼ばれ現在でも茶道部の活動の場として、当時の佇まいを今に伝えています。
 
古く平安の時代から続く紫野の地、そんなはるか昔に思いを馳せながらこの地を散策してみられてはいかがでしょうか。

【洛中徒然(2)】祇園祭 ~雪降るなかの山鉾巡行~

 7月に入ると、京都の鉾町界隈では祇園囃が聞こえだします。京の夏もいよいよ本番を迎え、何となく心が浮き立つものです。

 祇園祭は7月1日の「長刀鉾町お千度」に始まり、7月31日の疫神社夏越祭まで、実に1ヶ月におよぶ長い祭事です。この時期新聞では、連日のように「宵山に何十万人の人出」というニュースが流れ、京の町も大変なにぎわいをみせます。

 夏の風物詩といえるこの山鉾巡行、実は秋や冬に執り行われたことがあるのはご存知でしょうか。

 文献によると、室町時代のある時期に10回ほど、冬に行われたと記されています。天文元年の巡行では、何と雪の舞う中を神輿が祗園社から御旅所へ渡ったそうです。

 山鉾巡行は、神輿渡御(みこしとぎょ)の露払いとして、都大路を祓い清める祭礼と位置づけられています。多くの神事をつつがなく執り行うため、現在の山鉾巡行は17日と24日に定められています。「小雨決行・大雨強行」という言葉がある位で、記録が残る限りにおいては天候が荒天で中止された例はないとのことです。

 記憶に新しいところですと、昨年(2015年)の巡行は、大型台風接近という状況にもかかわらず、激しい雨のなか山鉾巡行を実施されました。伝統ある祇園祭を継承し後世に伝えようとする、町衆の心意気と熱意が感じられます。

 再三の中断と再興を重ねながら京都の歴史・伝統とともに歩んできた祇園祭。こうした歴史的な背景に思いを馳せてみられてはいかがでしょうか。